
濱田賞とは
苦あれば楽あり ― 小倉競輪誕生秘話エピソード
日本初の自転車競走は明治28年、横浜で実施され、戦前は新聞社主催のロードレースが活発に開催されていた。
湘南海岸に一大レジャーランドを建設し、世界屈指の観光地にする構想を描いていた元陸軍大尉・倉茂貞助と、宝くじの利益をもとに住宅建設構想を練っていた元満州国官吏・海老澤清。この二人が「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」のため、自転車レースを競馬にならって賭けの対象とし、その収益をもとに戦後日本の復興に役立てるという大義名分を掲げ、法制化に尽力して生まれたのが、昭和23年の自転車競技法である。
当時は米軍の占領下であり、最大の難関であったGHQの最終許可が出たのが6月8日、衆議院可決が6月26日。国会の会期は当初30日までで、参議院通過は無理かと思われたが、会期が5日間延長され、7月3日(1日説あり)に可決、8月1日に公布となった。現在の国会審議では想像できないほどのスピード審議であったり、片山内閣への根回しと衆参両議院17名による自転車競技法規達成連盟の存在が大きかった。加えて、忘れてはならないのが小倉市長濱田良祐の存在である。 国会審議前の5月に倉茂と会った濱田市長は、競輪開催への意志を固め、動き出したのである。競輪開催の引き受け手に苦慮していた倉茂にとって、濱田市長は地獄に仏であった。
小倉市は前年、旧制小倉中学校が第29回全国中等学校優勝野球大会で優勝しており、同年10月に福岡県で開催される第3回国民体育大会において、人気種目である野球を実施するため、不人気であった自転車競技を抱き合わせで引き受けていたのである。ちなみに、同年8月の第30回全国高等学校野球選手権大会では、新制小倉高校が連覇を達成している。
国体のために走路を作ろうにも、金も材料もなく、役所が必死にセメントや資材を集めたという笑い話が残っている。国体は10月、第一回の競輪開催は11月20日。わずか3~4か月で市議会を説得し、施設を造り、競技運営組織を形成し、選手を集め、ルールを決めたのである。穴場のシステムは競馬場の全面協力で助けられたものの、当時の関係者によればテンヤワンヤの開催準備だったという。
昭和23年11月20日。全国の地方自治体が注目するなかで、開催された初開催。バックの荒地から木柵越にレースを見ていたファンの中には、頭にキャップライトをつけた小倉炭鉱の炭鉱夫姿も多く、スタート地点の選手は、ランニングに半袖シャツで運動靴や地下足袋履き。コーナー審判を務める市内の自転車屋さんは、中折れ帽やハンチングでゴム長や下駄履き姿。穴場では発売締切合図をするために、梯子をかけて屋根に上がって手動サイレンを鳴らす。昭和53年に競輪発祥30周年記念座談会に集まった関係者の言葉を借りれば、まさに漫画的な開催風景だったという。かつ開催は4日間で、競馬を参考に入場者2千人、6百万の売り上げを想定していたが、実際は入場者5万5千人、1973万円の売り上げとなった。予想はずれの大記録を目の当たりに、全国の自治体が動き、短期間で63の競輪場ができ、登録数125名(出走104名)の選手はまたたくまに6千名を超えたという。競輪という一粒の種は小倉で発芽した。







